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  本田透著『電波男』三才ブックス、2005


 本書は、女を寄せつけない理論武装を喪男がするための、指南書である。

 脳内彼女と対話をくりひろげる半分ネタな本かと思って読み始めると、シリアスな大著だった。一読して共感してしまうが、同時に、著者の主張が、ある種のフェミニズムを転倒したものであることに気づく。

 というのも、エヴァのファンフィクション界隈で、著者が活躍していた時分のことを思い出したからだ。当時著者は、フェミニスト的言辞で、アスカとシンジのラブ・カップリングを推奨し、アヤナミストを批判していた(と思う)。因果はめぐり、本書ではそれが女嫌い宣言に結実したのである。

 本書の主張は、こうあってほしいという複数の願望を前提にして成り立つ。その問題点は、わたし流にまとめると、以下の4つに集約できる。

(1)オタクの経済社会構造(通称:ほんだシステム)には、異性が不要

 著者は、妄想の自家発電により、参加者すべてが自らの稼いだカネをまた別のオタクグッズを購入する資金として消費することで、ほぼ搾取なき永久循環経済が成立するという。

 これは、社会的な生産労働を支える再生産の問題を、無いことにする仕掛けだ(近代産業社会では、再生産のための労働を女性に担わせる分業で、社会を持続させてきた)。その意味で、分離派フェミニストの主張に通じる側面をもつ。

 だが、時間の経過を考慮にいれたとき、人生の浮き沈みによって、一人で生きていけなくなった、弱者のオタクはどうなるのだろう。オタク経済の外の共同性、つまり社会保障や親密なつながり(家族でなくてもよい)を、あてにせざるを得ないのではないか。

 岡田斗司夫は「子育てのための機能的協同体」家族論や「オタク結婚」論を展開した。ところが著者は(わたしもだが)共同性や連帯論を構想しえない社会階級に押しこめられている。そこが本書のパワーの源なのだが、サバイバルの方法論としては、大きな弱点にもなりうる。

(2)オタクは、三次元の女はどうでもよくなる

 著者によれば、現実の女性にたいする犯罪をおかすのは、オタクでなく、DQNである。DQNは想像力が乏しいから二次元と三次元の区別がつかない。オタクは人の心を傷つけたくない優しさ(古い意味でのフェミニスト!)があるから、暴力や犯罪に陥らないために、萌えの技術をみがいているのに、女はそれを理解しない。

 オタクにはそうあってほしいとわたしも思うが、二次元と三次元の境界を踏みこえる輩はきっと出てくるだろう。そのとき、著者の説は、オタクというくくりに逆襲されることになる。

(3)オタクは金や欲得から解放された純粋な愛、永遠の愛を求めている

 著者のいう「愛を注ぐほど愛し返してくれる相手」とは、かつて女性が求めつづけて苦しみ、捨ててしまったテーマとよく似ている。それをいま、男性が反復しているのだ。

 ブスは生きる価値がないという問題に、女性は整形・自己改造(サイボーグ化)するか、自足的な欲望主権者になるかで対処した。この本は、生身の女を必要としない生き方で護身し、自足的になるよう説く。

 そこまでなら、わたしも同意できる。ところが著者の場合、問題の淵源が両親にあったと「あとがき」で告白される。アダルトチルドレン「的」な、凄絶な物語である。その因果鉄道の旅が、萌えと支えあい、さらに因果をこじらせているようにも見える。

 だからこそ、話をエヴァ以前に戻したい。わたしもその一人であるところの「少女としての30男」は、あるがままの自分という資格で、愛を求めてはいけないのではないか。そこにはフェミニズムの影響、すなわちメンズリブの価値観が、ひそかに息づいていないか。

(4)仮想現実のほうが現実より価値がある

 本文中の用語でいえば、二次元>>>>>>超えられない壁>>>>>>>三次元、というものである。世間や女性への憎しみを復讐に転化させないよう、三次元への執着を捨て、萌えによって昇華し、心の安寧を得ようという。

 「三次元は単なる現実にすぎないが、二次元はより価値のある「真実」の世界だから生きろ」とのくだりには泣かせられた。

 ほんとうにそうありたいと、わたしも思う。人間関係の悲喜劇は、それでも人を好きになったり、つきあいたいと思ったり、その上で尊敬できる相手と同居や結婚をしたくなってしまうことで起きる。

 だからこそ、二次元のほうがいいと、護身したくなるのかもしれない。ところが著者は、女が愛するに値しないから、自分は愛のためにそうするのだと主張する。改心すべきは男を顔でしか選ばない女なのに、それは困難だから、というわけだ。

 身近な問題が、どこかで象徴的な「女」一般へと転嫁されていく。このとり憑かれ方は、フェミニズムのある部分をそっくり反転させたものだ。ここでは男嫌いに代わって女性嫌悪が、ヒロイズムやロマンとして機能している。

 女性を批判することと、キャラ萌えとは、もとは無関係だったはずだ。キャラ世界は固有のものであり、女のせいで二次元美少女に走ったわけではないだろう。女性嫌悪によってキャラ萌えを正当化する必要があるように、なぜ思わされてしまうのか。それこそ、男にプログラムされた生身の女性へのこだわり、わが身をそこから引き離すべき罠かもしれないのである。

 二次元美少女と愛をはぐくむのは、これまでのところ個人の自由なのだから、護身完成したい喪男は、その現状を墨守する方法を模索せねばならない。本書は、恋愛と核家族に重きをおく社会で、疎外された30代独身男の解放をめざす魂の叫びであるが、それはフェミニズム的な権利主張を換骨奪胎して、行われている。その方法で果たして、護身完成はなるのか。著者の苦悩は、まったくもって他人事ではない。

(2005年3月15日)


岡田斗司夫著 『フロン―結婚生活、19の絶対法則』 海拓社、2001

巷にあふれる家族至上価値論や父権主義論よりは、はるかにましな一冊。「家庭に安らぎしか求めない父親はいまや有害無益、不必要」「妻は夫をリストラして、経済的にも精神的にも自立し家族(=親子共同体のこと)のリーダー、つまり単独の責任者となれ」と主張する。

愛情だけが頼りの「核家族のシステムは急激に崩壊」したので、「家族を子育ての職場」化すること。女性が経済的資源、精神的支援の獲得先を夫以外にも分散させることで、個人の自己決定に基づく流動的な人間関係のシステムが構築され、「不安定だけど自由」な、「コミュニケーション社会」、「ネットワーク社会」になるという。

そのメリットは、「相手と始終暮らす義務から解放され距離をおくことができる」、「恋愛の自由市場」の敷居が低くなり、女性が無限の選択肢から最適なパートナーや育児作業分担者を場面に応じて選べ、「釣られた魚」にならず、幸せに近づけること。代わりに失われるのは、男性にとっては「安らぎの場、居場所である家庭」の安心感という幻想、女性にとっては「恋愛、結婚、子育て、老後までを託せるたった一人のパートナー」を見つけて得られる安定という幻想である。

このメリットとデメリットのどちらが大きいかの判断は、個人によって大きく異なるだろう。というのも、現代においては、大家族、愛情家族、シングルマザーなど複数のあり方が並存しており、各々を正当化する規範のどれも他を打ち消せるほど決定的ではなく、それぞれを信じる個人がいるだけである。これが「家族幻想の崩壊」の真実であろう。

ところが岡田氏は、自分の状況判断こそ「主流」だという。仕事/家庭/恋愛のパートナー分別の自由化こそ、社会の変化に適合した、優位性のある正しい方策だという。実際には、子供がいて、固定収入をもっていて、コミュニケーション上手で、情報収集能力が高くて、実家が近かったりする、そうできる資源を身につけた人が「勝ち組」だと断定しているにすぎないのだが、こういった「勝ち組」像は、なるほど「こうなるように努力しよう」と勧める「実用書」としての本書にふさわしいものの、岡田氏がいうような、「家族にまつわる既成概念を超えた」主張だとは到底思えない。

本書の最大の問題は、相手とずっと一緒にいる非合理的な選択を行うことと、行き当たりばったりの家族形成を行う非論理的な人々をそれぞれ負け組予備軍として自らの対極におく、啓蒙的な姿勢である。争点はその根拠であるが、それは、「オンリー・ミー」世代にとって家族は感情の牢獄であり、それによる束縛と義務をゼロにすることが不快を減らし、恋愛および育児の自己責任を発達させる、というイデオロギーにすぎない。この価値判断に対し、「主流」の人は、一面的には同意しても、全面的には啓蒙されないだろう。なぜなら、「リストラ」の禁欲が長期的に正しいかもしれなくても、長い人生の将来の不透明性は、リストラよりも子供をつくって何が起こるかわからない人生に備えるという、行き当たりばったりをむしろ合理的にさせており、男女とも、目先の相手を苦労と思わないことを規範的に良しとしてもらわなければ、感情的にやっていけない。それが人間社会であり、啓蒙された自己責任や理性が道徳の代替物になりうるという政治性が本書にもしあるとすれば、それは危険ではないか。

リストラができる強い意志がある人は、現時点では子供をつくらない選択をしがちなのではないか。むしろ経済的環境の男性中心制度を漸次的に改革する方が、岡田氏に啓蒙されるよりも、人生いつかは子どもを生み育てなくては、と考える女性をほんとうに、最大限に伸ばせ、夫もどんどんリストラ危機に直面して子育てに責任を持つようになるのではないか。具体的には、稼ぎ手としての女性の実質所得を向上させるようなフェミニスト的諸策が女性の精神改革とあわせて主張されるべきだろうが、本書にそういう主張は全くないことから、「愛情幻想と男性依存の女性に問題の責任があり、これをやめれば解決する」という女性嫌悪に基づいた単純化を岡田氏はしたいのだろうと私は思う。女性のエンパワメントにつながると思ってこの本を読む人は、まんまと釣られているわけだ。

義務や束縛をどうするのが幸せに一番近い計算なのか、その合理性自体が個人の文脈(個人のエゴではない)に大きく依存する。相手を信用して安心を得たい人は、「裏切らない」と「契約」し、契約が有効なうちは一対一の束縛関係を合理的だと信じるだろう。四六時中暮らすのが不快なら距離をとるという愛情もあれば、生活経験にまつわる感情の共有を相手に強要し、それに伴う試行錯誤を繰り返すことで満足する人もいる。何より、著者の説明とは裏腹に、老若関係なく、快/不快の感情を超越した人生経験が、家族の緊密性で得られたとの実感主義を、真の勝ち組の証と信じる人(「あんたも結婚すればわかる」)が社会に異常に多いことは、大人なら誰でも経験していることだろう。

岡田氏は、恋愛パートナー、子育て作業分担者、子育て責任者と外部の助言者など、ひとつの場面にひとつの役割へと人間を還元することで、社会の中の責任ある存在たり得ると考えている。しかし、一次集団の多面的な機能は、これまで子育てのための経済的な協力関係のみならず、共同体性を家族というカテゴリーに与えてきた。つまり、多様な人間の感情を満足させる役割を家族という集団レベルに引き受けさせてきた。

感情の処理が、相手を無理に義務関係に巻き込むことによってではなく、金銭を媒介にした消費その他の「ひとり遊び」で本当に解消できるなら、問題はさぞかし簡単になるだろう。家族は岡田氏のいうように、純粋な子育て機構になり、恋愛は純粋に短期的に「楽しまれる」だろう。本書では、感情の発露は「ひとりになる」ことで満足できるとしか提起されず、残余は抑圧することが求められている。つまり、家族に期待してはならないというわけである。これでは、現時点では机上の理想論の域を出ていないと言わざるを得ない。あるべき「機能に特化した家族」より、感情の包括的な発散を家族に期待している人が男女ともきわめて多いことを、岡田氏は非合理的だと切り捨ててはいるが、乗り越えてはいない。

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